私のハートはストップモーション

2012/01/14 13:01
まだ小学生の頃、TVはまだまだ歌謡番組も多く、カラオケがまだなかった時代。
今みたいに歌詞がかならずしも画面の下に出ることはなく、
タイトルと作詞作曲者名と歌手名のみがテロップで出ていた時代。

その頃はただ歌詞を耳で受け取るしかないんだけど、逆にそっちの方が自然でよかった気が。
耳を傾ける、耳を澄ますという感覚が研ぎすまされるから。
目で見てすぐ解って覚えた気になってそれでおしまいってことがないから。

人の声のヴァイヴレーションというのは相性もあるけど、
その声の耳への心地よさや後味が気に入ってると、ずっと記憶に残る。

人の唄声が声高な主張をするでもないのに、不思議と善い感じだなと感じたことがあります。
そんな歌い手は何人もいるけど、今よく思い出すのは桑江知子さん。
落ち着いたトーンなのに、延びと透明感のある声だった。

たまたまTVなどの露出が少ないだけで、売れてないなどというのもつまらん言い草だ。
この辺り、文化面でのセンスが問われそうだな。 まあいいけど。

タイトルの曲がヒットしてその後はあまり名前を聞かなくなってしばらくして、
ふと男性向けの雑誌グラビアでふと見かけたのが、彼女のヌード写真だった。

まだ子供だった私はなんでだろう、
東京ってどうしてこんな要求を歌手としてやってきた人に平気でするの?と。

これまたキツい言い草かもだけど、いまどきのミュージシャンや歌手だったら、
そんな仕事やれって言われたって、ビビって逃げ出すんじゃないかな。
だけど彼女はそれからも逃げなかった。

大人と呼ばれる歳になって気づいた、そんな事実。

音楽家が音楽をひたすらやれる環境って素晴らしいものだ。
原発がどうの、子供を守れなどといまさらの自己主張やら、
妙なアジテーションする暇があったら、曲の一つも作れ、
唱え、演奏しろって。

ほんとよ、明日は必ず来るって誰が保障するのかな。

桑江さんは今も歌手、DJ活動を地道に続けておられるという。
本来はその後もCM曲などキャリアをしっかり積んできている。
根っこのパワーがしっかりしてブレがない人には、音楽の神が微笑みサポートする。


節分過ぎると、海王星が魚に再びイングレスします。
もう水瓶には戻らないので、これから十二年以上は魚サインで。
どの惑星でもルーラー回帰は強力、本来の状況に戻す働きがあるんじゃないかと。

音や映像、光や香り、液体といった形がないもの、時間芸術に関わる人は意識して使えるエネルギーなので、
作品作りや展示に力を入れていくのが、この現実世界では受け入れられやすいと思います。

無形の価値を知る、受け入れのエネルギーとして使う。

個人でならヴィジュアライゼーションを活用してヒーリングや自己実現のテクニックを模索してもいい。
以前のエントリーでも書いたように、ヴィジュアライズは軍事の中でも取り入れられているぐらい。
それほどイメージの力は絶大であって、
エネルギーという目に見えない段階で、実は様々な事象がすでに出来上がったものとしてある、
という考えを改めて観ていく機会。

これがこの先の「常識」となるかどうか。

今までの在り方が、この手の土星外惑星の動きで改めて見直したり、
違った評価を出したり、感じたりというところがあるので、
次元が変わる感じがあります。
今までと違った新たな世界観を獲得するチャンスでもあるのです。

海王星は溶解するエネルギーなので、混乱を招くといいますが、
天王星が既に枠自体は取っ払っているわけで、まさに「受け入れ」方ひとつだと思います。

一見、独立したかのように見える個体ではなく、緩やかな液体のような在り方。

繋がりとか「絆」とか、今までは個人の責任がどうとかいってたのに、
今更なんで、みたいな感じの呟きもたまに見かけますけど。

責任もまた「受け入れ」なんじゃないかな。

個人的に海王星、魚サインは多面体のエネルギーとも観ているので、
ホログラフィーな世界観がより一般に根付くような気がします。

不寛容から寛容へ、という使い方もできる。
もしも誰かやどこかで問題が起こったら、それは個人やその場のみでなく全体でフォローしていく話だ、と。
一つの存在、場だけではなく、全体で包括して観ていく。

そこで起こった一つの事象が全体に及ぼす影響、
それがエネルギー的に大きく感じやすくなるような気がします。

感受性は海王星のキーワードの一つでもあるので。

色んな過去の映像や画像を観ていると面白い。
音源でもそう。
当時の息吹を古い写真から感じることがあるでしょ。

映像や音源は記憶装置でもある。

冥王星が山羊サイン運行中なので、それとセキスタイルを取ったときなど、
実にそんな過去のものから上手くいい智慧を引き出せるかも。

今までのことで、人様から価値を認められずとも自分がただひたすら好きだ、
愛していると思っていたものが遺産であったりする。

それは何かを選ぶときに「条件」とか自分だけに取って都合のいい損得勘定で決めてきた考え方では、
決して得られなかった何か。

誰かに確かな何かを保障してくれ、みたいな考えも溶かされそう。
自分が真に好きなことは、誰かではなく自分の中にあるもの、と気づかされてしまう。

(いや、気づかされるんじゃなく、思い出すんだろうな。)

かつて本当に好きだったこと、真心を捧げてもいいと思えるような、
無償、無条件でそう感じるものに改めて価値を見いだす時期になるんだろうと思います。

そして自分だけの物差しで世界を決めつけない、利益率だけで計らない、
世界観の広がりを愉しむ時代になっていくかもしれません。

流れるように過ぎていく。 今日と同じ明日など、どこにもない。



Comment Post

Name:
Subject:
Mail:
URL:

Pass:
Secret:管理者にだけ表示を許可する

Trackback

Trackback URL:
 Home