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sota de copas

牡牛サインのメモ

味わうとか、じっくり何かと向き合う、と。

煮詰めてエッセンスを抽出する過程の最初のとっかかりの話のような。
これは対抗する蠍サインと関わるだろうな。

例えばSONYが一度撤退したものの再び参入を決めた電子書籍という物がある。
一方、実際の印刷物、出版物、マテリアルとしての書物という、
直接手に取って読む愉しみというものは捨て難い。
皮膚感覚で受け取る喜びは何をさておいても愉しい。

知識、マインドとか手に取れる物質じゃないものですら、
そんな肉体感覚や具体性というものにまだまだ価値を見出せるもんだったり。

眼に観えない音と言う感覚だけでしか味わえない音楽も、
購入は音源ファイルのネット購入、DLで済ませられる昨今。
それでも実際にCDやレコードで本当に好きなものなら手に入れたい。
盤などのマテリアルで手に入れる喜びというのは素朴なだけに格別だったりする。

この辺りも実際、その人それぞれの感覚にもよるけど。

なんかこう、生きる根源といえば大袈裟に聴こえるかもだけど、
五感とか肉体感覚というのは人間とか動物とか、この地上に生を受けたものが得られる最大の醍醐味だ。

そう、「醍醐味」という言葉の意味そのものが牡牛サインっぽいんだな。
味わえるって最高だよ、だってその為に生まれて来たんじゃないの、という。
まったりと自分の中で喜びをかみしめているという。

肉体は一つの限界点だ。
だけどその限界すら受け入れて愉しむために生まれて来たってことで、おそらくは。
限界がある、という事自体が実はしあわせなことかもしれない。

鳥の様に空を飛べるわけでもなく、魚の様に水の中だけで呼吸して泳ぐこともできない。
馬の様に風を切って早く走れるわけでもない。
大きな角も鋭い爪も生えていないから、そういうので身を守ることすらできない。
鯨や象の様に巨大な肉体と体力で他を圧倒することも出来ない人間と言う存在だけど、
五感を味わって愉しと思って生まれて来たんだろうなと思う。

人間は皮膚や内臓が喜ぶ事がしたいんだなー。
生き物が肉体を持って生まれて生きると決めたんだから。

牡牛カスプのハウスはその事やシーンを皮膚感覚で味わいたい、
じっとひとところに落ち着いて、こねくり回したいという意志がある。

ふと思い出したのは占星術の先達であるこの方の著書だった。

占星学実践講座 (世界占星学選集 (第4巻))

昭和の中頃、今の様に沢山の日本語の占星術の指南書があるわけでもなく、
著者はたった一冊の英語の資料をボロボロになるまで、何度も辞書を引きながら読み込んだという。
そんな時間と努力の結晶がこの本だけど、自分でも何度読み返しても強力なものを感じる。
文字通りの「実践」であって、事実をそのまま調べ上げて検証した、と。

今は幾らでも日本語で書かれた優れた占星術本や翻訳もあるけれど、
この著書は最初に発表されて数十年経ってもその迫力は格別だと思う。

彼女の本を読んでいると、心の中の話や物事が現実化するという事をひしひし感じてしまう。
そのぐらい、シリアスでダイレクトな指南書。
繰り返し読む毎に真に迫る、という。

こんなこと、もうとっくに自分は知っている、などと言っちゃおしまいだ。
ちょっとした記述や解釈でも疎かにしてはならないね。
ましてや占いというものに片足でも突っ込んだ自分ですらそれは禁句だ、と思う。

別に占いだけに限ったことじゃないよ。

この現実世界で常識と思い込んでる話は幾らでもあるけど、
そういう話に限って実はとんでもなく奥深いような気がする。
うっかり侮るようなことを言ってる場合じゃない。

本当にこの世というのはなんてよく出来ているんだろう、
と思ってじっと座って観ている時間とか、それがどれほど自分に必要だったかとか。
一冊の本を繰り返し何度もボロボロになるまで読み込める喜びなんてのは、
やっぱり五感を通さないと沁み込んでいかないんじゃないかとかね。


植物的だったり、動物的だったり、凄く有機的なサインであって、
そこにはただ何も言わずに、緑のそよ風が吹いているよな。
「培う」という言葉もなんだか字面からして牡牛的だ。
じっとそこで何かを待って見守ってひとところで過ごすという様子が伺える。

頑固、欲深いというマイナス面を上げる本も多いようだけど、
一つ何かを待つ、待てる姿勢というのも何かの成長を促す重要な過程だしね。
そうねえ、「見守る」という辺りに昇華出来ればさいわい。

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