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sota de copas

大いなるあなた、ささやかなるわたし

電車のターミナル駅に降りると、この言葉(本文は英語)の看板が目について仕方ない。
今年になってから気付いたのだけど、看板自体はもっと前からあったかもしれない。
伝統あるミッションスクールのもので、私はそこの卒業生ではないけれど。

この言葉の本当のところを調べていて、色々な感情が取り巻いているんだなあと思う。
伝統ある良家子女の通うミッションスクールであり、
世間からはここの生徒はそれなりのお嬢さんとされる。
実際に電車の中で見かけても豊かで経済的不自由な感じは一切無いし、
旧き良きお嬢様のイメージをこの二十一世紀に入っても未だに感じるぐらい。
この学校が如何に入学許可する生徒を選抜し、普段の教育も謹厳に行っているのかが解る。

ここの卒業生達には現実的な言い方をすれば善くも悪くも「免疫の無い」人である事が多いと言う。
卒業生からのこういう感想や発言はインターネットのない時代にはなかなか得られなかったろうなあ。
今やお茶の間で簡単に検索してそんなエピソードのテキストを出す事が出来る。
コンピュータというボーダレスな水瓶アイテムが身近になったからこそだと思うけど。

こういう伝統と格式ある私学では、入学やその後の学園生活を続けるにあたってはそれなりの経済力も必要な現実もある。

>奉仕の精神も、敵を愛せ、隣人を愛せの精神も、言い方は悪いですが
 すべて自分が整っていなければ、そんな気楽なこと言ってられません。
>「質素」「倹約」という言葉は、「節約」「赤貧」とは全く違う

これもまた事実だったりする。 これが全てではないけれど。
この発言に感情的に脊髄反射している人までいて、
部外者な私は善くないと思うが苦笑してしまった。
誰しも人と比較するクセはなかなか抜けないものだ。
人の意見に「上から目線」という言葉をぶつけていっぱしの意見のつもりで批判する人、
最近随分目につくのだけど。

上下ってなんだ。
うっかり自分で決めつけてしまったら何かがおしまいな気がするけど、
そうすることでその人には色々は言い訳が立つんだ、きっと。
とりあえずは思う様な満足な結果や環境を得られなかったと言う悔しさや劣等感への。

えー、でも「自分で愉しく」っていうよね。
そう言う事を教えてくれた人がいる。
同い年の女性で、話し方もマイペースだけど仕事はちゃんと出来る人だった。
隣の課の人でアルバイト待遇だったけど、その事に不満など一切持たず、
正社員とほぼ同じ仕事こなしてよく残業一緒にやっていた。
社会に出た時、バブルの名残がまだまだあって仕事は早速連日残業みたいな状況だった。

ヒヨッコな私は早々に仕事量の多さと面倒な人間関係に音を上げてしまった時、
「自分で自分を愉しくしないと。」と休憩中に煙草をのんびり吹かす彼女にそう言って貰った。
人懐っこい笑顔と暢気な喋りで随分救われたと思う。

本来感情の強い内弁慶な自分なのに、社会に出れば人に譲らねばならない。
地道で細かい仕事など嫌で仕方ないのに、何故かそういうシーンに出されて、
それなりにやっていく羽目になっている。
ネイタルチャートを自分なりに読んで腑に落ちるまでは、
そんなパーソナリティに苦しんだものだが。

今では全てが確かに上手くできている、上手く流れているのだ実は、と思える様になったが。
これだってやっとこさ人生の折り返し地点にまで来たからこそかねえ。(苦笑)

で、件のミッションスクールはカトリックだ。
質素倹約を美徳とする、というのも富裕層に生まれ育ったからこその教育方針ではある。
現実世界の豊かさを享受する存在であると、ただありのままに認めて誠実に生きる為の術の一つとして、
解りやすいと私は思う。
卑下も奢りも無く素朴に。 
そんな理想に触れればシャイになるねえ...。(´・ω・`)

なんか凄く真っ直ぐな気がするんですよね、豊さを真っ正直に受けていてしあわせな人というのは。
経済的なレベルはさておき自分で自分を愉しくしていたら、
人様の言葉に「上から目線」などという変な批判はしなくなると思うな。

そして、奉仕というのはミッション系の伝統でもあるけれど、
「仕え奉る」ので、奉仕される側が目上という考え方だそうで。

使え祀る、と最初に変換されたのも面白いな。

現実、被災者になった時は1995年は後にボランティア元年とも言われたぐらいで、
まだその真髄はこの日本の社会で理解されるまでには時間が掛かったろうなと思う。
善意を伝えて実行するには勇気もだけど、相手の気持を害しない、尊重する為のテクニックが必要なので。
受ける側の切なさを今どこまで理解できるか、という辺りだけじゃないけれど、
大きな相手、小さな自分、という言葉は自己主張ではない自己の存在証明のとも言える。
人に何かを譲りながら、どれだけバランス取れるかというのはなかなかの高等テクニックを要求される。

世の中にはまだ「善意」「悪意」が渾然一体で、その中ではそんな考え方を無意識に行うと、
「免疫の無い」人と見られ侮られて利用されたり騙されたりという事態もあるようだ。
そんな現実だと解った上でも、

>ありきたりですが「愛」ですよね。

そういうところまで感じ取れたなら、やっぱりその人はしあわせなんじゃないかな。

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佐藤 亜紀

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パリのメトロの中でイスラム系移民の男性が、物乞いにボロボロの財布からお金を恵むシーンの記述が胸に残る。
物乞いよりも、そのイスラム系の老人の方が明らかに貧しい様子だったという。
気高さに触れてしまうと、それこそ言葉でどうという次元を越えてしまった感がある。
移民との激しい摩擦や感情が渦巻く今の欧州で、こんな話はマスコミには流れない。

件のカトリック系教育を行う団体は世界中にネットワークを持つ大規模な存在であって、
その中では色々な摩擦もあるだろう。
多くの人の思惑の混沌の最中では、宗教界であれ実際はさほど変わらないかもしれない。

そんな中で肉体を持って現実世界を生きるというやり方、本当に解りやすいと思う。
感情には何より先に肉体が反応するので。 

バーバラの「光の手」を何度読み返したか解らない。
今また下巻を読み返しているが、未知の段階に進む程に意識は「とてもシャイになる。」という。
きっと、それまで感じてやっと手放せた不安やマイナス要素の卑小さに改めて驚いた結果なのだろう。

それは、ささやかなもの、が大いなる何かとセットだった事を思い出す瞬間かもしれない。

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